自分が奴隷であると気づいた時。
僕は、サラリーマンになって、
頑張って働いていました。
努力すれば報われる。
そう信じて、生きていたのです。
しかし、自分の給料が少ないと感じた時、
ふと、不思議に思いました。
「自分の価値」ってこの給料で見合ってるんだろうか?
そう考えたら、
周りに見えてくる世界が、
違うものに見えてきました。
そして、ふと、思ったんですよね。
自分は奴隷なんじゃないか?って。
何故か売っている高級品
周りを見渡すと、
高級車、高級マンション、高級旅館、
入ったこともない高級な飲食店。
買うことが出来ない高級ブランド。
自分の給料では手が出せない商品が、
世の中にはいっぱい売っていました。
不思議でした。
売っている人がいるということは、
買っている人がいます。
自分は毎日、毎日、
朝から晩まで働いていました。
怠けてるつもりもなかったですし、
むしろ人一倍努力しました。
しかし、なぜか売ってる高級品を買うことが、
どう頑張っても出来ないということに気づいたのです。
自分が「のろま」だからなのか?
自分に「才能が無い」からなのか?
自分の「努力が足りない」からなのか?
高級品が買えない自分が惨めに思えました。
「買わない」のではなく「買えない」
親にドケチに育てられた自分は、
「高級な物を買いたい」という物欲は、
全くありませんでした。
高級な物が欲しいのではなく、
買えない自分が不思議だったのです。
そして買えない自分が嫌でした。
なぜ、欲しくもない物を買えない自分が嫌なのか。
それについて、考えていました。
「買えない」のと
「買わない」のは決定的に違います。
中古車なら買えるけど、買わない。
というのと、
高級車が「買えない」というのは、
本質的に全く違います。
「買わない」というのは、
自分が決定したことです。
しかし「買えない」というのは、
自分以外の外部要因によって決断されています。
その「外部要因」は自分の努力なのでしょうか?
買えないのは自分の努力が少ないからでしょうか?
物を買うという行為に置いて、
お金が無いと買うことが出来ず、
「自己決定」が出来ていないのです。
じゃぁ、頑張ればいいのか?
そう考えた時、
でも、どう考えても、自分の上司でも、
買えない物が売っていました。
サラリーマンだった時の上司は少なくとも、
自分より「努力したはず」です。
そして「自分が頑張った先」にあるのが、
自分を育ててくれる「上司のポジション」です。
しかし、その上司ですら買えない物がある。
そう気づきました。
自分の未来は、どれだけ努力しても、
買うことの出来ない物があることは変わらない。
そこで、ふと思ったんです。
自分って、ホントに自由なのだろうかと。
頑張っても買えない物がある未来は、
自由な人生とよべるのだろうかと。
自由と奴隷
僕は、
朝食は好きなものを食べて、
昼飯も好きなものを食べて、
夕飯も好きなものを食べて・・・
という「自由のつもり」で生きていました。
ずっと自由な選択を自分でしている。
そう思ってました。
しかし、いざ、冷静に考えてみると、
自由じゃないと気づきました。
夕飯は出しても3000円くらいまで。
それも毎日3000円ではなく、
月に数回あれば良い方という生活でした。
そして、それ以上は
食べたくないから、食べない。
のではなく、
食べたいけど、お金がかかるから食べられない。
という選択を無意識にしていました。
お金に縛られているんです。
僕の行動はお金によって縛りつけられている。
それも、無意識に、頭の中で。
自由ではない。
なにか、見えない敵に縛られている。
親か?学歴か?会社か?上司か?世界か?政治か?
周りの人間か?
僕は自由じゃない。
何かの奴隷だ。
「自分が奴隷」という、その直感は絶対に正しい。
心の中で確信しました。
でも、その何かが分かりませんでした。
「自分が奴隷であると気づいた時。」
その答えを教えてくれる人は周りに誰もいませんでした。
何故なら、
「僕の周りも全員、奴隷だったから」です。
奴隷は、自分が奴隷であることに気づいていない。
コレに気づいたのは、随分あとになってからでした。